世の中を平和にするには?核兵器と軍縮の歴史をみてみよう。SALTとSTARTの違い?【やさしい政治経済講座】

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今回は「核と軍縮」について見てみたいと思います。ただ、この分野を取り上げるには冷戦についての知識が必要です。冷戦はとても重いところなのでまた別の機会で取り上げます。記事内では冷戦に関することが出てくることをご了承ください。

軍縮を見る前にまずは「軍拡」のことを見る必要があります。ここで第二次世界大戦から先についてみていくことになります。もちろん、それ以前にも様々な軍拡、軍縮の歴史がありますが、現代で問題となっていることは主に第二次世界大戦からのことなのです。
その最大の原因は「核兵器」の開発です。
第二次世界大戦中の1945年にアメリカが原爆の開発に成功しています。その直後のヤルタ会談で米ソ冷戦がスタート。1949年にはソ連が原爆を保有します。これにより、核保有による勢力均衡が発生し、「恐怖の均衡」と呼ばれることになるのです。核兵器により自国が不利になることを恐れた各国は核開発を進めます。1950年にイギリスが、1960年にフランスが、1964年に中国が原爆の開発に成功しました。さらに1952年にはアメリカが、1953年にはソ連が原爆よりも強力な水爆の開発に成功しています。(日本と西ドイツ、東ドイツは敗戦国のため、開発できず)
実際にアメリカは1945年8月に広島と長崎に原爆を投下。さらに1954年にはビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で日本の第五福竜丸が被爆し、死者も出ています。
ここまで危険な核兵器を保有する根拠とは何か。
核保有国は「核抑止論」を主張しています。これは核があることにより、戦争の未然防止に役立っているという論です。
それでは国際社会はどのような見方なのか。
国連の主要機関であるICJ=国際司法裁判所は1996年に「一般的に国際法違反」とする勧告的意見(法的拘束力がない)を出しています。
1950年代以降は核兵器運搬手段の開発も本格化し、米ソはICBM=大陸間弾道ミサイル、SLBM=潜水艦発射弾道ミサイル、INF=中距離核戦力を次々に開発、増備しました。
米ソも怖いものなしだったかといえばそうではなく、アメリカのレーガン大統領はSDI=戦略防衛構想を発表しています。これがまたとんでもない構想(調べてみてください)でした。アメリカはこれに大量の予算を投入し、双子の赤字を招くことになります。
それでは「軍縮」は行われていたのかというと、平和に向けた動きはありました。
1950年代までは米ソ冷戦のため、実際の軍縮は行われていませんが、世界的な軍拡反対は第二次世界大戦の影響もあり、強く訴えられています。
1950年には核軍拡が進む中、世界中で核兵器反対の署名を集め、なんと5億人(当時の世界人口25億人)からの署名がありました。これをストックホルム・アピールと言い、多くの人が核に対して強い反対意思を示していることを確認しました。
1955年には広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれています。
1957年にはラッセルやアインシュタインらの呼びかけで核開発に関係した科学者など、10カ国22人で核廃絶を求める「パグウォッシュ会議」が開かれ、科学者からも兵器利用をやめるよう求めました。
1960年代になると1959年に起きたキューバ危機を受け、軍縮の波が訪れます。
1963年には米英ソの三カ国で部分的核実験禁止条約=PTBTが結ばれます。地下以外の全て(大気圏、水中、宇宙)での核実験を禁止したのです。しかし、これは核開発中途だったフランスや中国から見ると、核開発が完了してきている米英ソが核兵器面で優位に立ち、フランスや中国よりも国際社会での発言力を持とうとしているように見えてしまい、フランスと中国は不参加でした。さらにフランスはNATO=北大西洋条約機構からも脱退しました。
1965年には核保有済みであった五大国を除く、すべての国の核保有を禁止するNPT=核拡散防止条約を調印しました。しかし、こちらもフランスと中国は不参加(1992年に加盟)で、さらに五大国が一方的に有利となるため、対等条約とはいえないものです。
1970年代からは「デタント」により米ソに歩み寄りが見られ、その中で米ソの軍縮が進展します。
1972年には両国間で第一次戦略兵器制限条約=SALT Iが結ばれ、ICBMとSLBMの保有上限規制が設けられました。1979年にはSALTⅡが調印されますが、ソ連のアフガニスタン侵攻によりデタントの流れが一変。新冷戦と呼ばれる状況になり、アメリカはSDI構想や「強いアメリカ」を掲げ、SALTⅡはアメリカにより失効します。
新冷戦は1985年にソ連にゴルバチョフが就任したことで歩み寄りに転じます。ゴルバチョフは新思考外交を展開し、1987年にはレーガンとゴルバチョフの間でINF全廃条約が結ばれました。これは画期的なことで国際社会からも高い評価を得ました。(2019年にアメリカのトランプ大統領が破棄)
1991年には戦略兵器削減条約=STARTが調印され、核弾頭の削減、ICBM、SLBM、爆撃機の削減が行われました。1993年にSTARTⅡが調印されますが、2002年にロシアのプーチン大統領が戦略核弾頭の3分の1への削減を盛り込んだSORT=戦略攻撃力削減条約(モスクワ条約)を提案し、米ロで結ばれたため、STARTⅡは実施されませんでした。
STARTⅢはSTARTⅡにより交渉が求められたものであり、STARTⅡが発効しなかったことで交渉が難航。結局、妥結できず終了しました。
STARTⅠが2009年に失効したため、オバマ大統領とメドベージェフ大統領の間で2010年にSTARTⅣ(新START)が結ばれ、米ロの核軍縮は今でも進行形です。
国際的な軍縮では1996年に包括的核実験禁止条約=CTBTが調印されたものの、アメリカ、中国、インド、パキスタン、北朝鮮の反対で発効していません。2017年には核兵器禁止条約がNGO、ICANの取り組みで採択されたものの、核保有国や日本などが不参加となっています。
さらにNPT非加盟国による核開発も問題になっています。1974年にはインドが原爆を開発、1998年にはインドとパキスタンが地下核実験を成功させています。2006年からは北朝鮮も核実験を実施しています。
そんな中、非核地帯条約が各地で結ばれています。1959年には南極条約、1967年には宇宙条約、1971年には海底軍事利用禁止条約が結ばれています。
さらに1967年にラテンアメリカ、1985年に南太平洋、1995年に東南アジア、1996年にアフリカ、2006年に中央アジアで非核地帯条約が結ばれました。
それではここで多くの方がわかりにくいとするSALTとSTARTの違いについてご説明します。
どちらも米ソ、米ロの軍縮条約です。
もちろん、時期や名前が違うわけですが、とりあえず日本語訳して見てましょう。
SALT=戦略兵器制限条約
START=戦略兵器削減条約
そしてSALTからSTARTという順です。
簡単に言うとSALTは信頼醸成、STARTは結果です。
SALTはいずれも戦略兵器の上限規制を設けたのみであくまでも「制限」です。
STARTは戦略兵器を実際に両国で減らしていくことになっていて「削減」になっています。
つまり、SALTからSTARTに移行したと言うことは両国がどこまで減らせるかを話し合うという段階に達しており、進歩が見られると言うことです。
SALTのLは制限のLimitation 。STARTのRは削減のRedaction です。
このように考えればSALTとSTARTは簡単に区別することができるのです。
難しいのはわかります。
ただ、多くの人を苦しめるような強力な兵器に頼らず、人々が平和に暮らせる世界を目指していく必要はあるのではないでしょうか。どうしようもないと言って諦めて思考停止するのが一番問題だと思います。どのようにすれば人類にとって最善の選択となるのか。世界の指導者や有権者には是非考えてもらいたいものです。

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